2019年7月31日 中建日報
診断士が語る 戦争を経験した橋 12回目 避難のための橋、復興への橋
被爆橋梁と復興への道のり
被爆直後、一命をとりとめた多くの方たちが懸命に救いの手を求めて市外へ脱出していきました。その状況は容易に言い表せない凄惨なものであったことは、これまで多くの人に語られてきました。その際、橋の果たした役割は大きく、生き延びるための橋であったはずです。そしてその後橋の機能は大きく転換し、復興への橋となりました。
ここで改めて被爆約2ヶ月後に残された広島の道路橋21橋の配置を見てみます。図中塗りつぶした●位置が被爆橋梁です。矢印は全国から寄せられたと思われる復興支援の流れを示しました。これは道路橋による支援に限ったものですから、これ以外にも鉄道利用もあったものと思います。それにしても、被爆橋梁がそこに残ったことでいかに復興に寄与したかがわかるのではないでしょうか。
終わりにあたって
橋は昔より地域と地域をつなぎ、交流を促し、ある時は豊かな物資を、ある時は新しい情報をもたらしてきました。そのため、洪水や老朽化で壊されないよう、その時の最高の技術を集めて建設され管理されることが常でした。それだけにとどまらず、天才や事故で失われないよう、万代橋、常磐橋、永代橋、長生橋などその命名にも多くの人の希望が込められてきました。
しかし、ひとたび戦争となると橋は重要な戦略上の橋頭堡となり、そこでの攻防が戦況を決めることにもなることから、破壊のぜひの議論が持ち上がる定めとなってきたようです。また一方で、市民の立場からは橋は戦争から逃れ、命をつなぐという面で浮かび上がってきます。そして、戦争のために架ける橋、軍橋も登場してきますが、この橋も災害時には多くの人を救う橋ともなります。
これまで12回にわたって戦争を経験した橋について記してきましたが、橋の価値を戦争という視点から見直し、今ある平和の意義を再確認していただけたらと思っているところです。
注記:掲載写真は筆者撮影のもの以外、主にフリー百科事典「Wikipedia」による
=鈴木智郎=
復建調査設計(株)東京支社技師長。1975年に京都大学大学院を修了、日本鋼管(株)を経て、平成2001年から復建調査設計(株)、資格はコンクリート診断士、土木鋼構造診断士、技術士など多数。広島県コンクリート診断士会アドバイザー。1950年生まれの68歳。東京都出身。