2019年5月20日 中建日報
診断士が語る戦争を経験した橋 6回目 退路を断つ橋、くい止める橋
天然の防衛線ライン川
ノルマンディー上陸後の連合軍は、ヨーロッパをドイツ本国に向けて進軍します。戦線を後退するドイツ軍の背後にはライン川があり、連合軍はまず、退路を断つためにライン川に架かる橋を爆撃します。しかし、ドイツ軍の防衛ではほとんどが失敗しています。一方、ドイツ軍からするとライン川はドイツ領土を守る天然の防衛線であり、最後はここに架かる橋を爆破して連合軍をくい止められるよう準備をしていました。そして、その時がきて撤退と同時に橋の爆破が始まったのです。
ケルン大聖堂とホーエンツォレルン橋
ホーエンツォレルン橋が作られたのは1911年のことで、ドイツ帝国を統治していたホーエンツォレルン家の最後の皇帝ヴィルヘルム2世によってケルン大聖堂の真向いの位置に建設されました。第二次世界大戦中は、ドイツ軍の輸送路として重要な役割を果たしていたため、幾度となく連合軍の空爆の標的にされましたが落橋しませんでした。しかし1945年、それまで守ってきたドイツ軍自らの手で爆破されました。連合軍がライン川を渡り、ドイツ本国側へ進行することを防ぐためで、多くの貢献をしてきたこの橋を破壊し、機能を失わせることによって他の重要なものを守る判断をしました。まさしく、戦争に翻弄された橋といえるのではないでしょうか。
値千金の鉄橋
レマゲン鉄橋(正式名ルーデンドルフ橋)は、撤退するドイツ軍によって破壊されずに残っていたライン川を渡れる唯一の橋でした。そのためドイツ軍と連合軍の間で激しい争奪戦が行われ、結果としてドイツ軍の指揮系統の乱れなどから爆破が不十分となり連合軍に確保されました。そのため爆破に失敗した5名のドイツ将校は直後の軍法会議で銃殺刑となりましたが、そのうち1名はアメリカ軍の捕虜だったため処刑を免れました。橋は確保された10日後、補強作業中に崩落してしまいましたが、すでに多くの兵士は渡河しており、平行して浮橋を建設していたため大勢に影響はなかったとされています。連合軍総司令官のアイゼンハワーは「橋の重さ分の金と同じ価値がある」と言ったとされます。
奇策・背水の陣
第二次世界大戦中の1943年、ドイツ軍はユーゴ民族軍とともにバルカン半島での支配力を強めるため、連合国側の支援を受けていたユーゴスラビア人民解放軍の司令官がチトー元帥で、彼はユーゴ民族軍の手による「処刑」から救うため、いかなる負傷者もすべて連れて行くという約束をしてここまで解放軍を率いてきていました。しかし、橋の対岸にはユーゴ民族軍がおり、ドイツ軍もやがて迫って挟撃される状況。そんな中、彼はなんと自らネレトヴァ川に架かる橋を爆破してしまいました。これを偵察機から見たドイツ軍は、解放軍は進路を変更して移動すると判断し、橋への進攻を止めてしまいます。このタイミングで解放軍は爆破した橋を応急補修することで対岸へ脱出、その後再び橋を破壊して追撃をかわしたというのです。これによりチトー元帥の評価は高まり、後日ユーゴスラビアの独立を果たして大統領となる布石が打たれたものと思います。
この史実は映画「ネレトヴァの戦い」で描かれており、ネレトヴァ川には映画のロケで爆破された橋が現在もそのまま残されているそうです。
=鈴木智郎(すずきともお)= 復建調査設計(株)東京支社技師長。1975年に京都大学大学院を修了、日本鋼管(株)に入社、主に港湾構造物の計画設計に従事し、2001年から現職。主に橋梁の維持管理・補修設計を担う。資格はコンクリート診断士、土木鋼構造診断士、技術士など多数。広島県コンクリート診断士会副会長。1950年生まれの68歳。東京都出身。