2019.4.4 中建日報 診断士が語る戦争を経験した橋 1回目 原爆を経験した橋1 | プレス情報 | 広島県コンクリート診断士会

2019年4月4日 中建日報

診断士が語る戦争を経験した橋 1回目 原爆を経験した橋1

はじめに

診断士が語る戦争を経験した橋 1回目 原爆を経験した橋1 | プレス情報 | 広島県コンクリート診断士会 コンクリート診断士の鈴木智郎といいます。建設コンサルタントとして橋の維持管理・長寿命化の仕事について18年となります。この間、国内外の多くの橋に接し、また被爆橋梁にも関連した仕事をする中で「戦争に絡んだ橋・経験した橋」という視点に立つことで新たな発見があるのではと、思うようになりました。そこでこれをテーマに12回連載で記してみたいと思います。どうぞよろしくお付き合いお願いします。

原爆と台風を経験した広島の橋梁

 まず被爆橋梁の話から。昭和20年の原爆被災時、広島市街地の河川には道路橋、鉄道専用橋が59橋以上かかっていたと推測されます。というのも正確な橋梁数の記録が見つからないからですが、私の調査ではこのうち原爆の爆風で落橋したのは4橋、焼失したのが5橋、いずれも木橋です。50橋が残りますが、同年9月の枕崎台風、10月の阿久根台風による増水で20橋が流出し、30橋と約半分になってしまいました。これから鉄道専用橋を除くと道路として利用できた橋は21橋となり、被爆橋梁はこの中から架け替えされず残った6橋です。
 それでは、なぜこの被爆橋梁が残ったのでしょうか。写真はアメリカ軍が撮影した被爆前の航空写真を背景とした全59橋の位置、×印が爆心地、塗りつぶした○が被爆橋梁です。この写真は太田川放水路が作られる前のものですから、現在はない福島川、山手川も写っています。原爆によって爆心地から2km以内の建物はほとんどが破壊されたことは知られていますが、橋に関しては相生橋や元安橋のように直下にあった橋でも落橋せず残っています。21橋の内訳は木橋3、コンクリート橋8、鉄橋7、不明3です。不明というのは記録が見つかりませんが被爆前の航空写真に写っている橋です。これらの橋の中で劣化の早い木橋がまずなくなり、太田川放水路にからんだ橋が消え、老朽化が進行した橋は更新され、維持管理で延命化が可能と判断された6橋が残ったことになります。しかし、それだけの意味なのでしょうか。

土木遺産となった橋

 被爆橋梁のうち猿猴橋、京橋は旧西国街道に架かる橋として何代にもわたって架け替えられてきた橋です。そのうち猿猴橋は広島市内に架け替えられずに残る橋としては最も古く、大正15年建設で90年以上経っています。平成23年には原爆に耐え、広島の街の復興を見とどけてきた橋として、京橋とともに土木学会選奨土木遺産に選定されました。
 また平成28年の補修では戦時中に金属回収令で供出されなくなっていた猿2匹が桃を支える透かしが入った高覧、鷲がにらみをきかす親柱などが再建され、建設当時の姿を復活させました。
 駅前大橋の建設で交通量は少なくなりましたが、戦前、戦後を通じ広島駅前の活況を支えた広島を代表する橋と言えます。

京都に向かい最初に渡る橋

 京橋という名の橋は全国各地にあります。京都が都であった時代、京都へ向かう街道の最初の橋を京橋と名づける習慣があったようです。広島の京橋も猿猴橋に引き続き全国の国道整備の一環として昭和2年に建設されました。この橋は外桁の外面に薄いコンクリート版が化粧で取り付けられているため間違えられやすいのですが、猿猴橋(コンクリート橋)とは異なり鋼橋です。ですから、鋼橋としては市内で最も古い橋ということになります。
 戦前までは京橋川の少し下流にあった稲荷橋は電車専用橋であったため、広島駅から八丁堀方面への通行は一手にこの橋が担ってきました。これは当然のことなのですが、昔から橋が建設されるのは橋が最もあってほしいところ、そして大事に維持管理される、そのことを証明しているような橋だと思います。

 
 
=鈴木智郎(すずきともお)=
復建調査設計(株)保全構造部技師長。昭和50年に京都大学大学院を修了、日本鋼管(株)に入社、主に港湾構造物の計画設計に従事し、平成13年から現職。主に橋梁の維持管理・補修設計を担う。資格はコンクリート診断士、土木鋼構造診断士、技術士など多数。広島県コンクリート診断士会副会長。昭和25年生まれの68歳。東京都出身。

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